AI画像を使うとき、3つの段階がある。
- 設計(プロンプト)
- 生成
- 仕上げ
生成だけで目的を達せられる場合も多い。
だが、③こそが作品の魂を決める。そしてここにこそ、これからの時代の“クリエイターの価値”があるのではないだろうか?
生成AI画像について考えてみる
「AIが作った画像は評価しない」という声はある。
しかし、実際にAI画像を使って創作していると、そこにはもっと複雑で、もっと人間的な“構造”があると感じる。
私は絵を描くスキルを持っていない。
だからこそ、アイキャッチや小説の表紙には生成AI画像を使っている。
けれど、AIが吐き出したものをそのまま使うことはあまりない。
AffinityやPhotoshopで手を加え、作品としての「最終形」に育てていく。
この作業、そして考え方が今後のクリエイションの核になっていくのではないか。そんな気がしている。
画像生成AIは「言語によるデザイン」
私はStable DiffusionもNano Banana Proも本格的には使っていないが、プロンプト次第で想像以上の表現が可能だということは理解している。
優れたプロンプトを書くことは、優れたプログラムコードを書くのに近い。
- 表現したい世界観
- 色彩
- カメラの距離やレンズ
- キャラクターの情報
- 材質、質感、光
- 文化的な要素
- 違和感の排除
これらすべてを“言語”で指定する。
つまり、プロンプトとは絵の設計図に等しい。
しかし現状、多くの人はこの行為を「ただ言葉を打っているだけ」と見なしてしまう。
努力が可視化されないゆえに、スキルとして認知されにくい。
完璧にイメージ通りにはならない
優れたプロンプトを書いても、イメージ通りの画像が得られるとは限らない。
むしろ、完璧に一致するほうが奇跡に近い。
AIはデータから“統計的に最適”を選ぶが、創作者が求めるのは“自分の世界観”であることが多い。
だから私は、AffinityやPhotoshopで仕上げをする。
- 色を整える
- 世界観を寄せる
- レタッチで雰囲気を変える
- 文字情報と調和させる
- 不安定な部分を修正する
こうして初めて、「自分の作品だ」と思える。
AIが下地を作り、人間がそれを作品へと昇華する。
この手順は、むしろ自然なことだと感じている。
AIが生む“下地”を加工するのは、すでに「表現手法」
海外の商業現場では、
「AIで画像を生成 → 人がレタッチして仕上げる」
というワークフローが一般化しつつあると言われている。
これは「絵描きがAIの下請けになる」という話ではない。
むしろ、
- レタッチの知識
- デザインの理解
- 審美眼
- 画面全体を見る力
これらがない人には扱えない、新しい表現領域が生まれつつあるということではないだろうか?
写真をレタッチして幻想世界を作るのと同じ。
“素材を加工し、作品に仕上げる”という発想は、昔からある。
ただ、その“素材”がAIに変わっただけ。
AI生成×手作業の加工こそ、これからのプロの条件かもしれない
生成AIで画像が作れる時代になった。
Nano Banana Proでは、日本語も生成可能だ。
その結果、「得られたものに満足して終わり」の表現は増える。それで十分な場合も多いだろう。細部にこだわる必要の無い用途に、時間をかける必要はない。
でも、そこからもう一歩踏み込むかどうかで、作品の質は大きく分かれる。
- もっと世界観に寄せられないか
- 違和感を消せないか
- 文字との調和を壊していないか
- 色彩は物語を語っているか
- 見た瞬間、作品の“気配”がするか
これらを考えて手を加える人が、これからの時代の“プロ”になる。
AIは万能ではない。
だからこそ、AIを素材にして作品へ仕上げる人間の価値は、むしろ高まっていく。
私はそう考えている。
“その先へ”手を伸ばすクリエイション
AIが生成したものをただ肯定するのでもなく、否定するのでもなく、「その先へ行く」ために手を動かす。
その姿勢こそが、これからのクリエイションを切り開くパイオニア的な行為なのではないだろうか?
あっという間に結果が得られることに、努力することへの虚無感を抱くこともあるだろう。
それでも+αを求めてみる。そうすることで、自分だけの、唯一無二の世界観ができるのではないだろうか?
私は、AIを使う創作者を否定したいわけではない。
AIだけで完結させるやり方もある。
生成AIの技術は、本当に日進月歩だ。数カ月前に生成した画像は、今見ると古臭く稚拙に感じる。新しい技術でどこまでできるかを追求して、作品として出す。それも表現手法だ。
しかし、AIが生成したものを「部品」や「素材」として見ることもできる。
素材に“作品”として成立させるための手を加える。
その一手間に、人間の思想も、美学も、世界観も宿る。そういう考え方もできる。
私は、そちら側に自分の創作の価値があるような気がしている。
結局は、自分が何を創りたいのかが重要だ。
それによって、考え方も手法も変わるという話だ。
